この記事は、筆者(当時、事務長で事務方の責任者)が1982年から1983年にかけて1年間エジプトの通信建設プロジェクト工事のため駐在した記録です。
帰国後、当時の会社の社報に掲載されたものを復刻したものです。
着任時は「灯火管制下」で夜間の道路走行時も無灯火で走ることを余儀なくされ、無数の戦車の中で工事が行われました。
毎朝、長距離砲の発射音とともに目覚め、機銃掃射の火花を見ながら眠りにつく毎日。
日々大型爆弾と地雷除去の処理があり、夏にはコレラの流行で資材置き場に無数の死体が並ぶこともありました。
この事は社報という性質上、記事になっていません。
出発前に生命保険の会社から「お客様の場合、死亡されても保険金が出ません。」と通告されました。
当時は中東の現場は多かれ少なかれ戦闘地域でしたから「企業戦士」として駐在するのが普通でした。
当時の会社(日本通信建設)の社長から現地着任後「全権を委任する」という電報を受け取り、絶句したのを覚えています。
シナイ半島の戦争跡
戦争で銃撃を受けた建物
イスマイリア付近の検問所(ドラム缶の陰に機関銃がある)
スエズ・シャリアゲ-シュ(夜、戦車の車列でいっぱいになる)
◎ スエズの1年
スエズの町と中東戦争
サバヒール!イザヤック!(おはようございます。ごきげんいかがですか。)スエズの一日がこのあいさつで始まる。
スエズの町は、エジプトの首都カイロから砂漠の中を120Km走り抜けた所にある。アラビア語ではカイロのことをマスリ又はカヘラ、スエズのことをスエスという。
スエズは人口約20万、東洋と西洋を結ぶ有名なスエズ運河の紅海側の入口にある。
第4次の中東戦争で戦場になり、町中がイスラエル軍によって破壊された。当時イスラエル軍は幅約50mのスエズ運河に浮き橋をかけ、シナイ半島から多数の戦車でスエズの町に侵攻してエジプト軍と市街戦になった。
この戦闘でエジプト軍は撤退を余儀なくされ、スエズはイスラエル軍に占領された。スエズの西約60Kmまで後退したエジプト軍は、その後体勢を整えて再度スエズ占領中のイスラエル軍を攻撃し、
スエズ運河の対岸シナイ半島へ押し戻す事に成功した。この戦争でスエズ運河はエジプトとイスラエルの国境となり、1981年4月までイスラエルの管理下に置かれる事になったのである。
我々日本通信建設株式会社の建設プロジェクトチームは、1982年9月からスエズとイスマイリアに工事事務所を設置し、スエズ運河に沿って通信ケーブルを設置、エジプトとヨーロッパを結ぶ国際回線の構築をめざした。
日本人スタッフ60人とエジプト人スタッフ500人の大所帯で1年間で300Kmの掘削とケーブルの埋設、スエズとイスマイリアの電話局の開設、市内回線の接続工事をおこなった。
スエズの朝
スエズの朝は早い。まだ暗いうちに、町中のモスクから「アラーアクバル(アラーの神は偉大なり)」が始まる。スエズに来た頃は、このお祈りの声で夜中に目が覚めて困った。
アラーアクバルが終わると、野菜を運ぶ馬車やさとうきびを運ぶトラックの音、汽車の汽笛にバスのクラクション、そして最後のとどめは宿舎の向かい側にある学校のブラーディ・ブラーディだ。毎朝7時になると国歌の合唱である。これが始まると決定的に目が覚める.
スエズの街の男達は、朝スーク(市場)へ買い物に行く。昼になると、野菜も魚も暑さで悪くなるので、スークは朝にぎわう。牛肉は木・金・土の三日間が売り出し日でその他の日は買えない。
肉屋へ行くと皮を剥いだままの牛がぶら下がり、自分の好きな所を切り取ってもらう。ヒレ肉も骨付き肉も同じ値段で、1Kgハムサギネ(5ポンド・約1500円)である。牛肉の値上がりは激しい。半年前1Kg3.5ポンドだったのが5ポンドになった。パン1個1ピアストル・約3円に較べるとすごく高い。ブタ肉は、イスラム教の戒律食べないが、牛は目玉や脳みそまで食べる。牛肉のない日は魚市場がにぎわう。季節によって、アジ、サバ、タイ、スズキ、カマス、エビ、カニ等が屋台に並ぶが、スエズの人々は、草魚のような大きな魚を好んで買って行く、大きな魚をブツ切りにして食べる。味付けは日本のゆずに近い小さいレモンやトマト等でやる。
ハエたたき
スエズはハエが実に多い。日本のハエはとまるがスエズのハエは人の顔にとまる。ハエもノドが乾くとみえて、顔の中でも口のまわりにとまりたがる。ちょと気をゆるしていると5、6匹は顔にとまる。
ハエが顔にとまると気になって仕事にならない。6月から9月にかけて40℃~45℃の暑さとハエに悩まされる。この時期になると、朝一番の仕事はハエたたきである。
一つの部屋に50匹近くはいる。これを10匹以下にしないと仕事にならない。プラスチックのハエたたきはすぐ柄の所が折れてしまうので定規でたたく。
熟練してくると一分間に2、3匹撃墜できる。
来る日も来る日もハエたたきで、総合工事長の金子さんと私はハエたたきの名人になってしまった。
休みの日に宿舎にいると、朝8時頃ハエの大群が家の中に入って来る。
部屋の中を明るくしておくと、1日中ハエに悩まされるが、ヨロイ戸を半分位閉めて部屋を暗くすると、ハエは明るい方へ出て行く。
ハエがなかなか出て行かない時は台所かトイレの一ケ所を明るくしてハエを移動させSOX(ソックス印の殺虫スプレー)でシューとやると、数十匹もろに死ぬ。
つくだ煮ができる位である。ハエ取り紙がいいのではないかというので、日本から取り寄せたものを事務所にぶら下げてみたが、最初の2,3日はよくとれたが、ハエがハエ取り紙を避けて飛ぶようになってしまった。
結局ハエ取り紙は無用の長物になってしまった。
ハムシーンとサソリ
二階の事務所で仕事をしていると、下の方がさわがしくなってきた。何だろうと外を見ると空がまっ赤で異様な光景になっている。風がヒュウヒュウと不気味な音をたてて吹き荒れ、窓のすきまから砂が入ってくる。みるみるうちに砂ぼこりが、机の上やロッカーに積もる。
5月から6月にかけて、このあたりはハムシーンという砂あらしに襲われる。ハムシーンが来ると交通は止まり、人々は建物の中に閉じこもって、ハムシーンが通りすぎるのを待つ。
4,5時間で終わる時もあれば、一日中吹きまくる時もあるが、スエズの場合はたいてい夜にはおさまる。
砂漠の中でハムシーンに会うと悲劇だ。車のドアのすきまから容赦なく砂が入ってくるし、見通しがきかなくなるので方向がわからなくなる。車を道路のわきに寄せて、ひたすら通りすぎるのを待つしかない。
自然の力のすごさを見せつけられ、人間の無力を感じるひとときである。
ハムシーンの訪れとともに気温も上がり、サソリが地上に姿を現す。
私の宿舎の裏庭は、サソリの集会場になる。ゴキブリ大のサソリが2,3匹のそのそ歩き回る。最初はゴキブリがはっているのかと思っていたが、ライトで照らして見ると、しっぽの先が二つに割れていて毒バリを立てて迫って来る。
夢中でたたいて殺したが、毎晩入れ替わり立ち代わり出てくるので、しまいには慣れてしまい、そのまま放っておくようになった。
米の買い出し
エジプトでは、アエーシュ(パン)が主食である。小麦粉と重曹で作った細長いパンで焼き立てはおいしいが、冷えたアエーシュは硬くてまずい。
このアエーシュは価格が政府の統制下にあり、1個1ピアストル約3円と非常に安い。日本のパンの値段約150円に比べると実に50分の1である。
米も統制で、許可がないと買うことができない。
我々外国人はまずARENTO(エジプト電電公社)から、国家プロジェクトに従事している外国人であるとの証明書を書いてもらい、この証明書をスエズの食料事務所に持って行く。
食料事務所で1人1ケ月当たり10Kgを許可するという書類を発行してくれる。
米の購入許可証が手に入ると、トラックと人夫数名を調達し、スエズ郊外にあるスエズ州の食料倉庫へ乗り込む。ここまでの準備に一週間はかかるのである。もちろん各担当者にはバクシーシ(心付)が必要で、これを払わなければ許可証は永久にもらえない。
食料倉庫の受付で1Kg当たり40ピアストル(約120円)を支払い、伝票を持って倉庫に入ると、担当者がいて米の入った袋を渡してくれる。
ここでもバクシーシが必要である。毎月こういう手続きをして米を手にいれる。日本の農業指導で日本と同じ品種のコメを作っているので、米の形は日本と同じだが、精米が悪く、においがくさくてなれないうちは気になる。石やゴミも無数に入っているので、米を大きな皿に移して選別しないと食べられない。米の選別作業も、我々の大切な日課である。
ていねいに石やゴミを取らないと大切な歯がもろにこわれてしまう。歯医者に行ってもただ抜くしかないから大変である。
コンピュータの導入
スエズ工事事務所はニューセントラル(新電話局)の2階と3階にある。この事務所の2階の一室にコンピュータ室があり、日本から持ち込んだIF-800がある。
山崎OA部長のお世話で導入を計画、増田海外部長の了解を得て購入し、工程管理や工事積算のプログラムを開発した。プログラム作成は、大西社員や海外部のスタッフの協力によりディスプレイの画面上のマンホールや管路の図面の中に数値を入力するだけでセメントや鉄筋の数量が自動的に計算されるユニークなシステムである。
コンピュータ本体やプリンタ等の機材は先発隊の現地乗り込み時に分散して飛行機で持ち込んだ。
カイロ空港では手回り品として税関を通るつもりで緑色の通路(申告品なし)に入ったが、段ボール箱に入っていたためチェックされ課税品として税関預かりとなった。
スエズ到着後ARENTO(エジプト電電公社)からレターを発行してもらい、約1ケ月後無事無税で出すことができた。PackingListをARENTOの宛先にしておけばフリーパスで通ることを後で知った。
現地ではさっそく組み立てて使用を始めたが砂ぼこりが思っていたよりもすごいので、事務所の一室をベニヤで仕切り、床を10cm位上げてカーペットを敷き、上部には放熱用の換気扇をつけた。その他停電対策用に充電器とインバーターとバッテリーを組み合わせて非常用電源を作ったが、夏になると停電時間が長く、毎日のようにあるので、後には停電時にプログラムが破損しないようにソフト面での対策を行った。
コンピュータの運転が軌道に乗った頃、現地では新たに現地人の給与計算プログラムや現場経理プログラム、工事原価分析プログラム等を作成し毎日の事務処理に使用した。
このうち給与計算システムは、コード番号と勤務日数を入力すると給与明細書と内訳書がでてくるもので、現地人にもわかるように各項目はアラビア語で印字するようにした。その結果手書きによる明細書支給時にあったトラブルがほとんどなくなり、労務管理の上で非常に楽になった。
その後外注費支払いプログラムを作成し、
現地下請の支払いに使用した所、好評で以後NTK(日本通信建設)と現地下請との間の信頼関係が深まった。
1台のコンピュータが仕事の能率向上だけでなく、会社に対する信頼度が高まったという点でスエズでは計り知れない効果があったと思う。
今後は海外工事におけるプログラムを汎用化して他現場でも使用できるシステムにすれば、大きな効果が期待できると思う。
さらに機種について言えば、当初限られた業務のみの使用を考えていたので、メモリーの小さい機種にしたが今回実際に使用してみた結果、処理にかなりの時間がかかったので、今後はもう少し容量の大きい機種、例えばNECのN5200モデル05シリーズ等を持っていけば、当社の大型コンピュータとの連動も可能で、用途も広がって行くのではないかと考えている。このN5200シリーズの固定ディスク装置は、磁気メモリー部分が密閉され外気にふれない構造になっているもので、防塵対策の必要な中東地域で使用するのにはもってこいである。
おまけに一台でメモリー容量が10メガバイトと8インチフロッピーディスクの10倍もある。またLANFILEやLANPLAN等の簡易プログラムを使って現場の材料や車両の管理、社員のビザ管理や現地人の要員管理等のシステムも簡単に作ることができる。さらにLANWORDを使えば、海外工事に必要なワードプロセッサーにもなるので非常に便利な機種であると思う。又N5200には通信端末機能もあるので、電話回線を使ってホストコンピューターに送る事も可能である。
エジプトで活躍するヤバーニ(日本人)・・跡部さん
スエズの工事事務所に、宿舎の手配や現地人の給与計算などをやって下さっている跡部さんという人がいる。
今回の工事が始まるまでイスマイリアの町で「サムライ」という日本料理店を経営していた人である。
中東戦争が終わってまもない頃、ペンタオーシャン(五洋建設)の関連会社にいて、スエズ運河の爆弾や両岸に敷設された地雷を処理する為の磁気探査の仕事をしていて、エジプトが好きになり、工事が終わってから再びこの地を訪れたとのこと。奥さんのヘンダさんはイスマイリアの出身で、タブラ(たいこ)や歌がとても上手である。
跡部さんには本当にお世話になった。
車の借り上げや運転手の紹介、コックの募集や食料の調達等・・・。いずれをとっても現地に住んでいないとできない仕事である。跡部さんの友達のアリは、事務所の資材担当で安野社員のアシスタントをつとめ、すっかり日本語がうまくなった。
スエズの町で食料品店を経営していたサイードも、跡部さんの世話で事務所の運転手として働いてくれている。アリもサイードも我々日本人の気持ちをよく理解してくれ、資材の値段の調査や値引きの交渉など、我々とエジプト人の間に入って協力してくれた。
跡部さんの他にエジプト人女性と結婚している人に西川さんがいる。
エジプトで活躍するヤバーニ(日本人)・・西川さん
西川さんは、SunRiseEngineeringという会社を経営している。エジプトにおける日本企業のプロジェクトのコンサルタントやマンパワーサプライを主として旅行エージェントやフラワー教室など多方面にわたる仕事をされており、エジプトでは有名な人である。
昔、早稲田大学エジプト考古学調査隊の隊員でエジプトを訪れて魅了され、カイロに住みつき日本食料店やレストラン等を経営した後、現在のお会社を設立、エジプトで日本人のお世話をされている。
現在はNTK(日本通信建設)をはじめ日本鋼管や日立造船等のプロジェクト、小田急観光、電通、日本テレビ各社等と業務提携されている。
西川さんには、エジプトの労働賃金や税金の実態、社会保険に関するアドバイスをはじめ、カイロ空港での着任者の通関に現地スタッフを出してもらったり、帰国社員の航空券の予約等、スエズで対応できない所で非常にお世話になった。
西川さんの妹さんの英子さんはSunRiseのスタッフとして日本のテレビ各社の取材の案内や小田急ツアーのツアーリーダーとして活躍されている。エジプトを訪れる日本人観光客は年間3万人から4万人と言われている。又エジプトにプロジェクト工事等で駐在する日本人は6千人を越える。
終わりに
1年のスエズでの仕事を終わり、まだ暑い日の続く1983年9月シナイ半島からゆっくり昇る朝日を背に受けながら、私はスエズの人々に別れを告げ、あの通い慣れた砂漠の中の道路一路カイロへ向かった。
終わってみると長いようでもあり、短いようでもあった1年、最初は何もわからなくて困ったアラビア語にも慣れ、帰る頃には不自由なくケンカもできた。あんなに苦労した色々な事が今はスエズの砂漠の夕焼けのように楽しい思い出として残る。
まだスエズの町で工事を続けておられる線路(線路工事=回線接続工事)の皆さん、最後までがんばって下さい。
又お会いできる日まで”マッサラーマ!”
懇親会・右から2人目金子総合工事長、3人目桜木工事長
西川さん夫妻
イスマイリア工事班
スエズ宿舎
スエズ電話局前の工事現場
スエズ・ケーブル敷設現場